やがてその手は剣を取る

「あの小僧の名前を覚えているな」
 ヒョーゴがいつものように両腕を胸の前で組んで言った。色眼鏡の向こうからキュウゾウの横顔を見る。
 彼は襖に視線を向けていた。だらりと腕を下げ、気の通らぬ風情で立つ。
 日の落ちた廊下に行灯の火だけが燈っていた。
「覚えているのであろう? 誰にも興味を持たぬお主が、あの小僧だけは意識のうちにある」
 お主が興味を持つのは誰のものであれ刀だけだと思ったがな、と不可思議なやり方で笑う。
 彼は視線を移さない。
「……俺は教えぬ」
「それでも諦めなかったら?」
「何?」
「それでも、あの小僧が諦めなかったら? お前はどうするのだ?」
 それはまるでキュウゾウが何かをすると思っているかのような口調だった。彼は目線をちらと動かすと、何も答えることなく元へと戻した。
 ヒョーゴは片目を眇め、顎を上げる。
「お前以外は師と認めぬ。そう言ったと聞いたぞ。小僧が一丁前に」
「……知らぬ」
「あれは何処まででも付いて来る。地の果ても、前線の先も、何処まででもお前の背を追う気だ」
 キュウゾウの眉間が皺を作る。僅かに顎を傾けて右手を見やった。
「だが、あれは未熟だ。生き残ることなど出来やしない。直ぐに死ぬ」
「……お前が」
 お前が拾ったのだろう、と彼は言った。
「だから何だ?」
 ヒョーゴは嘲笑うように口の端を上げる。
「与えられた仕事を遣いにやるだけだ。死のうが生きようが、知ったことではない」
 お前は違うのかとその目が問う。
 キュウゾウはそれから視線を外すと、敷居を見詰めた。
「……覚悟が無ければ、戦場で生き残ることなど出来ぬ」
「ならばそれをお前が教えてやれば良い」
 まるで今それを思いついたかのような口調でヒョーゴが言う。
「迷えば死ぬ。あいつは必ず迷う」
 言葉と違え酷く愉快そうな様子でそう言い、「俺の知ったことではないがな」と付け足すと、ヒョーゴはくるりと踵を返した。
 気配が向こうへ消える。
 常は置いてゆく立場の彼が、逆に背を見送る形になった。
 ヒョーゴの弁は、キュウゾウの考えに類していた。彼は故に自分ではイブキに教えることは出来ないと考えた。だが、ヒョーゴは故に教えろと言う。
 ヒョーゴは愉しんでいるのだ。キュウゾウの目の前にあのようなものを置き、彼が内心に惑い、その剣を取るしかない処まで追い詰められる様を。
 言われずとも教えなければならない。
 背後の刀に触れ、キュウゾウは知らず溜息をついた。
 不意に、キシ、と床が鳴った。
 鞘を辿り、指先にある柄を握る。張り詰める気配に、脅えるような別の気配が触れた。
「……あの」
 キュウゾウが警戒を解くと同時に、まだ距離のある位置から声が言う。ヒョーゴが消えた方とは逆の角からだった。
「あの、オレ、……か、厠に」
 厠に行く為に通ろうとしただけだと覚束ない口調が弁明した。
「あの……ちかづいても、いいですか?」
 その言葉に応えるように彼の視線がそちらを見たのを見て取り、イブキは一歩一歩踏み締めるが如くキュウゾウとの距離を縮めた。
 身を強張らせ、彼の顔をまともに見ることも出来ない。
 そのまま前を通り過ぎようとした時、突然と、彼が口を開いた。
「何故サムライになる」
「……え?」
 不意打ちに顔を上げた少年は至近距離で彼の顔を見ることになった。後退りすら出来ずにその場に縫い付けられる。
「……何故、サムライになることを望む」
 薄暗がりだった。だが彼にはイブキの顔がはっきりと見えた。
 イブキは暫く呆けたように彼の顔を見詰め、やがて視線を落とした。
「……それは」
 口を開くが、言い淀む。
 彼は長く待った。少年が再び口を開くのを待った。だが、少年は顔を上げなかった。
「……言えぬか」
「……済みません」
 漸く口にしたのはその一言だけだった。
「行け」
 弾かれたように少年が顔を上げる。寄せた眉を下げ、泣きそうな目で彼を見上げた。
「オレ、」
「行け」
 もう一度繰り返す。少年は唇を噛み、何をか言いかけるが、結局何も言わずに廊下の向こうへと消えた。
 彼はその背を見送らなかった。ただイブキの顔のあった辺りを、ひたと見詰めていた。
 覚悟を決めなければ、死ぬ。
 そうしてイブキは、翌日、キュウゾウの随伴兵となり、ゴロベエたちと刃を交えることとなった。