弐
空を見上げた。
高く晴れた青色が一面に広がる。遠くなった所為か、旅に出た頃に比べると青色はやや白んだようだった。それを身に含むようにして、手も届きそうにないほどの距離の先を、刷いたような雲が流れていく。
冬はまだ遠く、そしてもう直ぐだ。
今頃村は稲の刈り入れも終わり、稲木を組みなおしている頃だろうか。
浮きが沈み、視線を落とした。
2度、3度。小刻みに浮き代わりの木切れが水の中に消え、そして完全に沈み込んだ。
その瞬間を狙い両手で構えた竿を思い切り引き上げる。飛沫が水面を跳ねた。
釣り上げたのは腹に黒い筋の走る鮠だった。竿ごと細く伸びた糸を引き寄せ、魚を手繰る。掌よりも少し大きいくらいだった。
獲物の大きさに文句が言えるほどオレとキュウゾウさんの食生活は裕福では無いけれど、日はまだ高かった。もう一度くらい浮きを待つ時間はある。
魚の口から釣り針を外し、水際に膝を着くと、川の中で鮠を解放した。
そしてもう一度浮きを投げる。
川辺に座って膝の上に頬杖を突く。
またぼんやりと流れ続ける川面を眺めた。
こうしているといろいろなことが、まるで崩れかけた雲のように、形を成さないまま頭の中を通り過ぎてゆく。
あれから少し経った。七日くらいだろうか。
痛みはもうあまり残っていない。
あれはなんだったのか、オレは何をされたのか、何が起こったのか。未だに答えは無い。キュウゾウさんに訊くことなどできなかった。
オレは自分からその話題を口にすることはなかったし、キュウゾウさんが口にすることもなかった。それに関することも、ほかの事にしても。まあそれはいつもどおりだ。
ただ、以前は何よりも落ち着くことのできる時だった二人で居る時間が、少し苦痛になった。
キュウゾウさんは今ここにはいない。そう遠くないどこかにいるはずだ。
あれからオレはあの赤い瞳と目を合わせることができず、僅かだけれど距離を置くようになっていた。こんな状況を気にしているのかいないのか、今朝オレが目を覚ますとすぐにキュウゾウさんは何処かに行ってしまい、置いていかれたオレはこうしてここでぼんやりと食料調達をしている。
キュウゾウさんは放っておくと必要時以外食事を摂らず、しかも食べたとしても糒ばかりだった。戦場でならいざ知らずもっと自分の体を気遣うべきなのに。
浮きが一瞬、跳ねるように沈んだ。
竿を握りかけたけれど、浮き上がった木切れが再び沈むことはなかった。
ひとつ息をつく。
距離を置くことを望んでいるのに、ぼんやりとして思い出すのはキュウゾウさんのことばかりだ。ひどく不自然な状態だと思う。
けれど何故か、傍を離れようとは思わなかった。いくら尊敬する師だといえども、怒りが無いわけではないし、戸惑いも消えない。なのに何故か。
自分でも不可思議だった。
魚は4尾釣れた。
川の水際を石を取り除いて掘り下げ、浅瀬から水を流し込んでそれを生簀代わりにした。
日は大分落ち、そろそろ火を焚かなけれならない時刻だった。
キュウゾウさんは結局一日中姿を見せなかった。けれどそう間を置かずに戻ってくるだろう。
オレは生簀から少し離れたところに焚火の準備を始めた。石を退かして浅い窪みを作る。
一人旅が長かったので、こういったことは誰に習わずともできた。そして、キュウゾウさんと居るようになってから覚えたこともある。前は敵も味方も見分けられ無かったけれど、キュウゾウさんの気配は判るようになった。まだ殺気ではなくてキュウゾウさんの気配は、だけども。
だから人の気配が後方から近づいてきて、背後に立ってもオレは驚かなかった。
顔を上げず、支度を続ける。木切れを並べ終え、火種を手に取った。そしてそのままの姿勢で固まった。
背後にあった気配が膝を折ると同時に二の腕の下から手を回してきた。その手が腹の前で交差してゆるく力が篭る。
耳許で、すぐ近くでその息遣いを感じた。
自分が唾を飲み込む音がやけに大きく頭のなかで響いて、オレはそれを振り払うように後ろを振り返る。
すぐそこに金色の頭があった。前髪の間から覗いた右目が視線を上げる。赤褐色の瞳がオレを見る。
きれいな色だ。
一瞬、その思いで頭がいっぱいになる。下から伸びてきた手に顎を捕らえられたのに気がつかなかった。
距離が近くなる。また唇が重なる。逃げることができなかった。
その一瞬、キュウゾウさんの瞳に見つめられて、恐怖以外の何かを感じた気がした。
高く晴れた青色が一面に広がる。遠くなった所為か、旅に出た頃に比べると青色はやや白んだようだった。それを身に含むようにして、手も届きそうにないほどの距離の先を、刷いたような雲が流れていく。
冬はまだ遠く、そしてもう直ぐだ。
今頃村は稲の刈り入れも終わり、稲木を組みなおしている頃だろうか。
浮きが沈み、視線を落とした。
2度、3度。小刻みに浮き代わりの木切れが水の中に消え、そして完全に沈み込んだ。
その瞬間を狙い両手で構えた竿を思い切り引き上げる。飛沫が水面を跳ねた。
釣り上げたのは腹に黒い筋の走る鮠だった。竿ごと細く伸びた糸を引き寄せ、魚を手繰る。掌よりも少し大きいくらいだった。
獲物の大きさに文句が言えるほどオレとキュウゾウさんの食生活は裕福では無いけれど、日はまだ高かった。もう一度くらい浮きを待つ時間はある。
魚の口から釣り針を外し、水際に膝を着くと、川の中で鮠を解放した。
そしてもう一度浮きを投げる。
川辺に座って膝の上に頬杖を突く。
またぼんやりと流れ続ける川面を眺めた。
こうしているといろいろなことが、まるで崩れかけた雲のように、形を成さないまま頭の中を通り過ぎてゆく。
あれから少し経った。七日くらいだろうか。
痛みはもうあまり残っていない。
あれはなんだったのか、オレは何をされたのか、何が起こったのか。未だに答えは無い。キュウゾウさんに訊くことなどできなかった。
オレは自分からその話題を口にすることはなかったし、キュウゾウさんが口にすることもなかった。それに関することも、ほかの事にしても。まあそれはいつもどおりだ。
ただ、以前は何よりも落ち着くことのできる時だった二人で居る時間が、少し苦痛になった。
キュウゾウさんは今ここにはいない。そう遠くないどこかにいるはずだ。
あれからオレはあの赤い瞳と目を合わせることができず、僅かだけれど距離を置くようになっていた。こんな状況を気にしているのかいないのか、今朝オレが目を覚ますとすぐにキュウゾウさんは何処かに行ってしまい、置いていかれたオレはこうしてここでぼんやりと食料調達をしている。
キュウゾウさんは放っておくと必要時以外食事を摂らず、しかも食べたとしても糒ばかりだった。戦場でならいざ知らずもっと自分の体を気遣うべきなのに。
浮きが一瞬、跳ねるように沈んだ。
竿を握りかけたけれど、浮き上がった木切れが再び沈むことはなかった。
ひとつ息をつく。
距離を置くことを望んでいるのに、ぼんやりとして思い出すのはキュウゾウさんのことばかりだ。ひどく不自然な状態だと思う。
けれど何故か、傍を離れようとは思わなかった。いくら尊敬する師だといえども、怒りが無いわけではないし、戸惑いも消えない。なのに何故か。
自分でも不可思議だった。
魚は4尾釣れた。
川の水際を石を取り除いて掘り下げ、浅瀬から水を流し込んでそれを生簀代わりにした。
日は大分落ち、そろそろ火を焚かなけれならない時刻だった。
キュウゾウさんは結局一日中姿を見せなかった。けれどそう間を置かずに戻ってくるだろう。
オレは生簀から少し離れたところに焚火の準備を始めた。石を退かして浅い窪みを作る。
一人旅が長かったので、こういったことは誰に習わずともできた。そして、キュウゾウさんと居るようになってから覚えたこともある。前は敵も味方も見分けられ無かったけれど、キュウゾウさんの気配は判るようになった。まだ殺気ではなくてキュウゾウさんの気配は、だけども。
だから人の気配が後方から近づいてきて、背後に立ってもオレは驚かなかった。
顔を上げず、支度を続ける。木切れを並べ終え、火種を手に取った。そしてそのままの姿勢で固まった。
背後にあった気配が膝を折ると同時に二の腕の下から手を回してきた。その手が腹の前で交差してゆるく力が篭る。
耳許で、すぐ近くでその息遣いを感じた。
自分が唾を飲み込む音がやけに大きく頭のなかで響いて、オレはそれを振り払うように後ろを振り返る。
すぐそこに金色の頭があった。前髪の間から覗いた右目が視線を上げる。赤褐色の瞳がオレを見る。
きれいな色だ。
一瞬、その思いで頭がいっぱいになる。下から伸びてきた手に顎を捕らえられたのに気がつかなかった。
距離が近くなる。また唇が重なる。逃げることができなかった。
その一瞬、キュウゾウさんの瞳に見つめられて、恐怖以外の何かを感じた気がした。