草叢の上に押し倒された。
 目の前にはオレを見下ろすキュウゾウさんの顔がある。あるけれど、月明かりは薄暗く、陰になってよく見えない。
 背中を強か打って涙目になるよりも、次の瞬間には首元に刀を突きつけられるのでないかという恐怖のほうが強かった。キュウゾウさんに肉迫されるような覚えは無かったし、何も問題など無かったはずだ。けれど、出会ったばかりの頃のことが脳裏を掠めた。
 キュウゾウさんの右手が動く気配に、オレは思わず肩を竦める。だが、その手はそっと顔に触れただけだった。そのやり方がひどく優しくて、俺はまた驚いた。
 親指が頬を滑り降りてゆく。
 少し距離が近づいて、赤褐色の瞳がこちらを見ていることに気が付いた。
 不機嫌には見えなかったが、真剣な色を帯びているようだった。
 なにを。
 ようやくそう言おうとして、けれど言葉にはならなかった。オレが口を開く前に、キュウゾウさんの顔がもっと近づいてきて、目と鼻の先にその瞳があって、その唇がオレの唇に触れた。
 驚き過ぎて、あまりのことに、抵抗するのを忘れた。

「……」
 上がった息が戻らない。
 頭のなかは真っ白だった。
 浅い呼吸を繰り返す。
 野営をしていた。焚火を前に、囲むように二人で座っていた。不意にキュウゾウさんが立ち上がったのは覚えている。
 獣か野伏せりかと、その視線の後を追った。けれど、いつも何処か遠くを見詰めている目はこちらを見ていた。目があった。
 背筋が寒くなるような鋭い視線に、オレはオレの背後に何かが居るのだと思った。
 キュウゾウさんはこちらへと踏み出した。ゆっくりとした足取りだった。歩き様、ひどく無造作な仕種であの血のように紅い外套を、脱ぎ捨てた。
 そして。

 真っ白だった頭にいろんなものが流れて込んできて、オレは思わず跳ね起きた。
「……なんてことするんですか!」
 傍らのキュウゾウさんを睨む。
「びっくりし過ぎて、抵抗するのを忘れたじゃないですか!」
 自分でも何を言っているのか。先ほど言えなかった言葉がぐるぐると回って、とにかく何かを言いたかった。
 赤褐色の瞳と目が合う。
 睨まれた。
 なんでオレが、そう思うのに開きかけた口がそれ以上動かなくなる。
「……着ろ」
 風邪をひく。少し小さくなった声が付け足した言葉が聞こえて、オレは再び口を開こうとした。顔を上げようとして、やめた。
 ひどい有り様だった。
 体も、着物も、草も、どろどろだった。とにかく、どろどろでぐちゃぐちゃだった。
 手元に手ぬぐいが置いてあった。拾いあげ体を拭う。腕を動かしたり、体を捻ったりすると、あちこちが痛んだ。
 太股の内側を拭こうとして、オレはそれに気が付いた。手が止まる。
「……貸せ」
 また近くなった気配が言う。
「……嫌です」
 オレは顔を上げなかった。拒絶の言葉に一瞬、ためらうような間があった気がした。
「……貸せ」
 右手をオレの手に重ねるようにして、キュウゾウさんは手ぬぐいを自らの手に収めた。今度は返事は待たなかった。
 瞳がこちらを見て、促す。
 左脚を支えるようにして持ち上げられ、体を傾ける。剥き出しのそこに布が当てられるのを感じた。
「……っ」
 痛みと流れ出す感覚の気持ち悪さに、思わず呻く。
 だが、何よりも、今の状態が耐えがたかった。キュウゾウさんには情けない様を何度も見られているし、何度も助けてもらってる。だけれど、こんな体勢で向き合っているのなど、当たり前だが、初めてだった。
 同時に自分の有様を思って、恥ずかしさに体が熱くなる。
 きっと今の自分は、耳まで真っ赤だ。
 左脚が下ろされても顔を上げることができなかった。オレは文句を言う気力も無かったのかもしれない。
 また、頬に指先が触れた。親指が滑り、瞼の上に微かな湿った感触。
 少し迷って視線だけを上げる。さきほどと同じくらい近い距離に、赤い瞳があった。なぜか不意に、その目を、きれいだなと思う。
 唇に唇が触れた。

 キュウゾウさんが何を考えているのか、オレにはまったく分からなかった。