嵐吹きて花誘う。

「そういや聞きました?」
 牛台を占領するシチロージに向けて、妓夫太郎が思い出したように言った。
「例のイブキに怪我ぁさせた客。『碌な店じゃねえ、何かにつけてあの昼行灯野郎がしゃしゃり出てきやがる』って言ったそうでげすよ」
「……そりゃ、あたしのことかい?」
「他におりゃせんでしょう」
 妓夫太郎はそう言って笑う。まあ言い得て妙だとシチロージは思う。踏み倒し野郎の言いそうなこと、その時はそう思い、気にも留めなかった。

「シチロージさん!」
 番台に顔を出したシチロージの元へ、イブキが行き急き込んで飛び込んでくる。
 勢い余るイブキに対して、シチロージは至って冷静に、片眉を上げて見やった。
「あたしは此処に居まさあね。番屋の小僧じゃあるまいし、喧しいですよ」
「見つけたんです!」
「だから何をだい」
「例の客をですよ!」
 その言葉を聞き、シチロージの目が、す、と細くなった。
「……イブキ」
 低い声で呼ばれて、イブキは思わず次を告げようとした口を閉じる。
「ちょいとこっちへおいで」
 自分を招く表情を見て取り、イブキ眉がを下げる。あっという間に勢いを殺されて、畏縮気味にそれに応じた。
 店の入り口から見えない奥に入ると、直ぐ傍に来るように示して、シチロージはイブキを見下ろした。
「警戒してるかも知れない人間を相手に、大声は御法度だ」
 声を潜めるようにして言う。
「どれほど旨い機縁があろうと、逃げられちゃあ御仕舞いだ。……解るな?」
 説く言葉にしょんぼりと、イブキが肯く。
 その情けない表情に微かに笑うと、シチロージはくしゃりとイブキの茶色い頭をかき混ぜた。
 余程嬉しかったのだろう。そう思い甘い顔をしてしまいそうになる自分を律して、変わらぬ声音で問う。
「……それで?」
 イブキが面を上げ、シチロージを見た。その瞳は士気こそ下がったものの、普段の冷静さを取り戻したようだった。
「……七ツ辻の茶屋の近くで、件の輩を見たんです」
「どっちだい」
「両方です」
 イブキの答えに、流石のシチロージも驚きを隠せなかった。眉間に皺を寄せ、片眉を上げる。
「……なんだって?」
「オレも自分の目を疑いましたけど。片方は茶屋に入って行って、片方は待合から出てくるところでした。……オレを見下ろしたあの顔も、人相書きのあの顔も、見間違いようがありません」
 語る言葉とは裏腹にイブキは静かな声で言う。冷静になった分、怒りが腹の底で煮えているのかも知れなかった。
 シチロージは天井を仰ぐ。
 茶屋に入ったほうは暫くは居たままだ。待合から出てきたほうは、これから廓へ行くはずだ。こちらも暫くはこの里に居る。
 僥倖とも言うべき、素晴らしい好機だった。
 それにしても、まだ半月も経っていないと言うのに、こんなに早く現れるとはまったくの予想外だった。それこそ素晴らしき愚図と言っても良い。
「……旨くないねえ」
 羽織を袖を通さず引っ掛けたシチロージは、その下で両の腕を組んで呟いた。
「なんです?」
 だが、聞き返すイブキには「いや」と言って答えず、指先で顎を摺った。
「それで、待合から出てきたほうはどっちだい」
「……オレが、逃した客です」
「てえことは、入ったほうがあたしが逃した客か」
 あっさりと言われた言葉に、イブキは応えを返さなかった。肯くのを憚ったらしい。
「……イブキ。お前さん、廓の客を追う気だろう」
 当たり前です、とは言わなかった。たが今度は無言で、イブキはシチロージの顔を見る。
「お前さんは確実に顔を覚えられている。件の客はまだ外にいる可能性もある。どうにも具合が悪い」
「シチロージさん!」
「それに手も治っちゃないだろう。これ以上傷を増やして、刀握れねえ体になりたいのかい」
 シチロージの言葉にイブキが眉を顰める。「左手だってやれます」という言葉を飲み込んだようだった。視線を落として床を睨む。
「……オレは」
「碌でもない客は幾らでも居まさあね。今回を逃しても、お前さんが相手にするべき輩は、この先掃いて捨てるほど居るんだ」
「……オレは」
「イブキ」
 言い聞かせるような口調になる。イブキは痛むはずの右手で強く柄を握ると、不意に顔を上げた。
「援護、させてください」
 これ以上一歩も退く気はないという顔だった。その瞳で見詰められ、シチロージは片方の眉を上げて嘆息する。
 事態に何か違和感を感じることよりも、殊この事に限ってイブキが何故そこまで依怙地になるのか、それが気になった。

 偵察にやった妓夫によれば、シチロージの予想通り、茶屋の客はまだ出てきて居ないということだった。だが、もう一方は予想に反して、廓には向かわずに待合の付近の茶屋──喫茶のほうの──で人待ちの風情だという。
 動く気が無いのであれば捉えてしまうことも考えるが、店先で騒ぎを起こして茶屋の客に知られるのは旨くない。
 件の客には里のあちらこちらの店が被害を被っているという。花街において客を売るのは見下げる行為であり、客にやり込められるほうが無粋なのだという考えが普通だ。
 その反面、口さがを得るのは粋の心得だというのも花街の風潮でもある。いざとなれば協力を得るのは容易なはずだ。
 シチロージは妓夫を再び件の茶屋へやった。
「……イブキ」
 店を出る妓夫を見送り、傍らに居るはずの名を呼ぶ。
 カチリと鯉口が鳴った。
「どうする」
「……直ぐに出れば、必ず片方を逃がします。外に居る客が動くのを待つしかないと思います」
 冷静だが面白味の無い答えだ。イブキにしては真っ当すぎる。静かな声からは、一度煮えた怒りが、腹の底で冷えているのが手に取るように感じられるようだった。
 カン、とシチロージが手にした煙管の首を煙草盆に当てて、灰を落とした。
「旨くないねえ」
 火皿を下にして灰吹きに置く。
「……まあ、あんまり熱くなりなさんな。あたしの勘じゃあ、奴は暫くは動かない」
 立ち上がったシチロージをイブキが見上げる。シチロージはその顔を見下ろして、
「待ってる間にちょいと手伝っちゃくれないかい」
 そう言うと応えを待たず、背後にある棚と向き合った。
「……何か、探すんですか?」
 何故今、という気持ちを隠そうともせず、イブキが下から問う。
 藤色の羽織を引っ掛けた背中が、棚の前で手を彷徨わせ、その一つを開けた。
「同じ日でしたね」
「同じ日?」
「前回もあの二人は同じ日に現れた」
「……そう、ですね」
 シチロージの背から視線を外して、イブキは思案顔になる。全く同じ時に、全く同じ場所に。お陰でイブキとシチロージは個々に分断され、酷い目にあった。
「確かに図ったような適時ですけど……」
 それが、と視線を正面に戻したイブキの目の前に、数冊の帳簿があった。
 驚いて僅かに顎を引き、上を見上げる。
「この間帳簿を確認した時に、気にはなったんですがね」
 片手でイブキへ差し出し、もう一方の手にも持った帳簿を見せて、シチロージが言う。
 イブキが首を傾げながらそれを受け取ると、シチロージは彼の膝の上で帳簿を繰った。そしてある紙面を開き、ひとつの名前を指で示した。
 その名前から下へと辿り、もう一つの名前を示す。
「この日も……」
 件の二人の客の名前が、同じ日の客として並んでいた。
 そうして、シチロージが取り出した数冊の帳簿を確認すると、ある時まで、二人が同じ日に訪れていることが多々あることが判った。
「でもこれは」
「そうです。常に同じってわけじゃあないですし、里は広いようで狭いもんです。偶然が重なることもあるってもんでしょう」
 イブキはその真意を図りかねるように、紙面を見下ろすシチロージの顔を見る。変わらぬ語調にそぐわず、その顔には不機嫌な色が浮かんでいた。
「……この日以来、二人が同じ日にきたことはないんですね」
 再び紙面を繰り、イブキが頭を傾ぐ。
 その『ある時』は、シチロージが逃した客が代金を踏み倒した日だった。その日の帳簿には、その客の名前はあるが、もう一人、イブキが逃した客の名前は無い。
 それ以降、シチロージが逃した客は店を訪れていない。
「あの日、確か。確か……外で騒ぎがあったんでしたよね」
 イブキは記憶を手繰るように言う。
「店の前で喧嘩騒ぎがあって、オレや他の用心棒たちはみんなそっちに対応しなくちゃいけなくて。だから」
 だから、言いかけて口を閉じる。躊躇うような間にシチロージが後を次いだ。
「だから裏から逃げてく奴を逃がしたんです」
「……シチロージさんの所為じゃ」
「気づくのが遅かったんですよ。誰か一人でも手が空いていれば、とは言っても、あたしの失態であることに違いは無い。人の所為にするなんざ情けないと思ってましたが、逆だ。確かに、あの騒ぎが無けりゃあ逃がしやしなかった」
 騒ぎがなければ。騒ぎを起こしたのは誰だったのか。
 あの日の記憶を手繰っていたイブキが、「あ」と声を上げた。
「そう、いえば。あの日、あの男の顔を見たような気が……」
 あの男──イブキが逃した男──は確かにあの場に居た。それも野次馬の中ではなく、喧嘩の中心だったはずだ。
「騒ぎを起こした男と踏み倒した男。踏み倒した男と騒ぎを起こした男。これですっきりと解りやすくなったってもんです」
「二人がお互いを逃がすために共謀してたって言うんですか!?」
「客の顔を合わせないのは色街の流儀ですがね、幾度と無く重なれば、入りや出で鉢合わせることもあったはずだ。初めが偶然にしろ、3度も重なれば必然でさあね」
「……それじゃあ今日も」
「通りで、ほとぼりも冷めぬうちから現れるわけです」
 シチロージは合点がいったとでも言うように、そう言って笑った。だが口元は笑んでいても、目は冷えたままだ。
「どうします」
 イブキが問う。
「こうなったら、顔を見られようが構いやしません。茶屋の奴が出てくる前に、片を付ける。……いいですかい」
 低い声音が答え、イブキはその言葉に肯いた。

「やあ、にいさん」
 そう言って目の前に立ったシチロージの顔を、男は瞠目して見上げた。半月ほど前にイブキが逃したその男は、喫茶たる店の奥に隠れるように座っていた。
 どう見ても、これから愉しく妓たちと過ごそうという風情ではない。
「舐めた真似してくれたもんだねえ」
 シチロージの言葉を最後まで聞かず、男は立ち上がって脇をすり抜けようとした。その足を、シチロージは杖状の柄で引っ掛ける。
「おっと。人の話は最後まで聞くもんでさあね」
 店の入り口で待つイブキの横を男が転がっていった。
 イブキはそれを見送ってから店を出ると、男の傍らに立った。
「規則は守ってもらわねえと、あたしらも商売上がったりなんでね」
 声とともに、シチロージが暖簾を潜る。
 その顔を見た男は、焦燥も露に、足を引き摺るようにして腰を上げる。
 男の手が腰の刀へと向いた。
「色街で刃傷沙汰は御法度だ。それを承知かい」
 シチロージが口の端を上げて、言う。
「う、うるせえっ」
 男は逃げを打とうともしない。既に自分が窮地に立たされているのを解っているかのようだ。
 制止も聞かず刀を抜く男の姿を見詰めながら、イブキは首を傾げる。疑問を思った刹那、耳へと男の言葉が届いた。
「手前ェみてえな妓の腰巾着のひとりやふたり、どうにでもなるっ!」
 頭に、血が昇った。
 冷静さがすべて吹っ飛んでいくように、ただ本能で足を踏み出した。
 抜刀の勢いをそのまま、上段へ向けて斜めに薙ぐ。
「イブキ!」
 甲高い、鋼が噛み合う音が辺りに響いた。
 イブキの刀は、逆袈裟懸けに斬り上げた形で正確に男の首を狙っていた。
 それを右手後方から伸びたシチロージの槍が阻む。
 穂先の左手で正確にイブキの刃を捕らえ、しかしその一方で、右手の刃が男の喉許を紙一重で捉えていた。
 一瞬の攻防に男の刀は一寸足りとも動いていない。
 刀を阻まれても尚、イブキの瞳は鋭かった。刃が噛むのも構わず柄を中段まで下げ、猛る眼で男を睨む。
 耳障りな音を発して鋼が鳴った。
「……訂正しろ」
「な……」
「訂正、しろ」
 男はまともに言葉を発することもできない。恐らく、何を言われているのかも理解していないだろう。
 やり返すといってもこれではやり過ぎだった。恐らく止めなければ寸止めもできず、今頃男の首は地面の上だ。
 シチロージは一瞬の逡巡の後、落とした声音でその名を呼んだ。
「イブキ」
 イブキの応えは無い。槍でその刀を無理やり弾くこともできたが、右手への負担を考えるとできればそれは避けたかった。
「イブキ」
 もう一度、呼ぶ。
 不意に深く息を吸って、イブキはそれを丹田から吐いた。全身の力を抜くように刀を離す。
 鞘に戻す様子を見やり、シチロージは誰にもわからぬよう静かに息を吐いた。そうして、男に視線を戻す。
 正面から男の顔を捉えた。
「いいかい、旦那。この里で如何様するにはそれ相応の覚悟ってもんがいるんだ。足が付いて首と体が離れるのが怖いってえなら、二度と下らねえ真似はしないことをお勧めするよ」
 首を刃に狙われ、凄みのある声で睨まれ、男は刀を仕舞うこともできず何度も頭を上下させる。
 シチロージが槍を引くと、腰が抜けたように尻餅をついた。
「お前さんの相棒も今頃同じ目に合ってるでしょう」
「……な、なにを……」
「なあに。ちょいと表が騒がしくなったら勝手口に気をつけたほうが良いと、提言しただけでさあね」
 その言葉に、男は完全に観念したようだった。立ち上がることもできずにがっくりと項垂れる。逃げる心配は無いだろう。
 そう思い、シチロージは穂先を仕舞い、イブキに歩み寄った。近くに居た妓夫に取立てを任せる。
「……イブキ」
 先ほどの気迫が嘘のように消えていた。その頼りの無い佇まいからは、傍らに居たシチロージが心胆を寒くするほどの気迫──殺気を放った人間と同じものとは思えなかった。
 恐らく我を忘れたが故なのだろう。だが、細くなりきらなかった殺気はまだ未熟でしか無かったが、確かに、その横顔には誰かの影が見えたような気がした。
 刹那の判断とはいえ、槍を以ってしか止めることができなかった。それを思い、シチロージは地面を見詰めるイブキを見下ろす。
 意地を張りたくなると顔を見ようとしないのは、この子の癖らしい。
 シチロージは息をつくと、イブキの右手を取った。手首の包帯が取れかかり、刀を打ち込むために強く捻った所為でまた腫れ上がっていた。
「……碌な店じゃないって」
「なんです?」
「碌な店じゃないって、言ったんです。蛍屋を。……シチロージさんのこと、昼行灯って言ったんです」
 シチロージは片眉を上げた。それはあの直後に聞いた。だが自分は気にも留めていなかった。
「今も。腰、巾着って。そんな……そんな、わけないし、そんな言い草、オレ、許せなくて」
 だから意地を張った。今も。前も。
 シチロージは堪らず天を仰いで、もう一度溜息をついた。
「……馬鹿だねえ、お前さんも」
 言って、くしゃり、とイブキの髪をかき混ぜる。
「……だって、知ってるんです。オレ。シチロージさんが、すごいサムライだってこと」
「そんなのお前さんが知ってりゃあいいんですよ」
「……そんなの、駄目です」
 そう言って、イブキはまた駄々っ子のような口調になる。諌めること本日3回目だというのに、甘い顔どころか、この場で人目も憚らず抱き寄せてやりたい想いに駆られて、シチロージはまた溜息をつく。
「……兎に角。その手をどうにかしてもらいに、帰るとしましょう」
 頷くイブキの背に手を添えて、歩き出すよう促す。
 男は、蛍屋の取立てが終わった後も、他の店の連中が待っている。後は彼らがどうとでもするだろう。 
 男たちのことは妓夫に任せ、二人はその場をあとにした。