如月のある日のこと。

「ひとつ、賭けでもしましょうか」
 顔の前で人差し指を立てて、シチロージさんがそう言って口の端を上げた。
 オレは太巻きに齧り付こうとしていた手を止めた。口を閉じて隣に座る顔を見る。
「賭け、ですか」
「そうです」
 笑みを浮かべたまま頷く。
 この手の話に良い目を見た覚えのないオレは、はっきりと眉を潜めた。あからさまな態度で応えを返す。
「まあ、そう嫌な顔をしなさんな。何も金を賭けようってでも無し、ちょいとしたお遊びですよ」
 シチロージさんは、息抜きもたまには必要ですよ、そう言って笑った。けれどオレは『お遊び』という言葉が余計に引っ掛かった。
 しばらく共に居て解ったけれど、この人は存外、こういうところがある。人をからかうのが好きなのだ。特にオレのような物の判らない子どもを。
「……何を賭けるんです」
 自分を『物の判らない子ども』だと認めなければならないことに憮然としながら、オレはそう問うた。
「それを」
 人差し指が示したのは太巻きだった。
「……寿司ですか」
「なんでも、処に依ると立春の節にはイブキの顔よりも長い太巻きを食べるそうでげす」
 唐突に始まった話に訝しみつつ、シチロージさんの顔を見てそれを思い浮かべる。そんなバカな。幾ら何でも長すぎる。
 オレの考えを見て取ったのか、シチロージさんが、にやりと笑った。
「処変われば品変ると申します。有り得そうに無いことを有り得無いと切り捨てちゃあね、人生を楽しめませんぜ。イブキ」
 ひどく愉しそうに、御座敷独特の口調になる。
 この口調が出る時は、何か含みがある時だ。オレは嫌な予感がした。
「この太巻き、姿形が奇妙なら、その食べ方にも面白い仕来たりがあるそうで」
 オレの眉間に寄った皺を無視してシチロージさんは続ける。
「一つ、ある決まった方角を向いて食べること。一つ、食べ始めたら必ず完食すること。一つ、食べ終えるまでは一言も効かないこと」
「……それをすべて守るんですか?」
「その通り。一つでも違えれば福が逃げてしまうそうでげすよ」
「そんな理不尽な」
「神事ってもんは概してそんなもんでさあね。縛りがきつければきついほど、耐えれば耐えるほど、神様だか仏様だかが目にかけてくれるってんですよ」
 神や仏など露ほども信じてなさそうな口調でそう言って、シチロージさんは「そこで、です」とぴしゃりと膝を叩いた。
「果たしてイブキが福を掴めるかどうか、試してみようじゃありませんか」
「……遠慮します」
 迷わずオレはお断りする。
「おや、その物言い粋じゃあないねえ」
「オレはサムライにさえなれれば、福なんか要りません」
「まあそう言いなさんな。運に見放されちゃあ、成るもんも為りませんよ。……それとも何かい」
 ずい、と顔を寄せる。
「サムライになろうって男が、太巻きひとつ、勝つ自信がないと?」
 オレは身を引きかけて、思わずその顔を見詰める。
「……」
「情けないやねえ。たった12、3寸足らずの太巻きに臆すとは」
「……誰も食べれないとは言ってないじゃないですか」
「そうかい。あたしはてっきり負けるのが怖いのかと思いましたよ」
「そんなことありません!太巻きだろうがヤカンだろうがいくらでも──」
「食べるんだね」
 はっと気付いたときには遅かった。
 シチロージさんはひとつ笑みを残すと、身を引いて掌を打った。
「これで賭けは成立だ。お前さんがやり遂げられるか遂げられないか。さあ太巻きを用意するとしますかね」
「シチロージさん!」
 既に腰を上げて部屋を出ようとしているシチロージさんをオレは慌てて呼び止める。
 けれど後を追おうとするオレを尻目に、目の端で笑うと、シチロージさんは廊下の向こうに消えていった。

 蛍屋。控えの座敷。膳の上の太巻き。
 畳の上に落ちる行灯の光を見やって、オレは嘆息した。
「ある方角ってえのはその年の吉方位、今年は丙の方角って話ですよ」
 膳の傍らに胡坐をかいて座るシチロージさんが部屋の角のほうを指して言う。
「……本当にやるんですか」
「男に二言かい?」
「……やります」
 何かがおかしい。オレは自分からやるとは一言も言ってないのに。何故か引き下がれないところに追い込まれている。
「まあ、流石に13寸を食いきれとは言いやしないよ。掌よりちょいと大きい10寸ってえとこでいこうじゃないか」
 『ちょいと』じゃない。かなりはみ出してる。手渡された太巻きを両手に持って、それをじっと見詰めてしまった。
「でかいですね……」
「それを口一杯に頬張れば福も飛び込んでくるってことさあね。……みっともないことになるといけないから、一応閉めておくよ」
 その言葉とともにぱたん、と襖が閉まったけれど、オレは太巻きを見詰めたままほとんど聞いていなかった。持ち上げてみるもののどうも安定が悪く、両手で尺のように持つしかない。
「……やるかい」
 オレは諦めて部屋の角のほうを向いた。先ほどシチロージさんが指した丙の方角だ。太巻きを構えて「はい」と頷く。
「口に入れたら声を出すのは禁止だ。水も無し。吐き出すのも無し。咀嚼中に口から離すのは良いが、休憩が長すぎると放棄と看做すよ」
 改めて聞くときつい縛りだ。そうシチロージさんが嘯く。まったくだと思うけれど、シチロージさんに言われたくない。
 少しの間太巻きを見詰めていた。そうして、意を決して口に入れる。
 噛り付いてから、『何を』賭けるのか決めてないことに気が付いた。

 オレはしばらくの間そうして太巻きと格闘していた。
 最初の一口二口は悪くない。蛍屋の台所が作ってくれたものだし、味は旨い。
 けれど2寸を越えるくらいになると、少し飽きてきて、3寸を越えるくらいになると顎が疲れてきた。干瓢がうまく噛み切れないのがつらい。
 何処の土地の人が起源なのか、一体何を思ってこんなこと始めたんだろうか。人々が集って無言で太巻きを食べる。きっとかなり滑稽だ。
 段々食べることに集中できなくなってきたらしい。関係ないことを考え始めている。
 太巻きは大きくてなかなか食べやすい位置が定まらない。
 上から噛り付いたり、持ち上げて下から食べてみたり、横から食いついてみたり、兎に角、口を大きく開いて頬張り、食べ切る為に試行錯誤を繰り返す。
 そういえば、と食べながら思う。
 賭けという割にはシチロージさんは何も言わない。オレが太巻き食べてるところなんて見て楽しいんだろうか。まさかオレを置いて寝てるんじゃないだろうな。
 オレは横目にちら、と傍らを見やった。
 シチロージさんは先ほどと同じ場所に座っていた。胡坐を崩して片膝を立て、頬杖を突く姿がある。一瞬視界に映っただけだけれど、こちらを、オレを見ていた。
 口元に薄く浮かんだ笑みが気になった。
 半分ほど、食べ終えただろうか。咀嚼の振りをした休憩を終え、再び太巻きを口に含んだとき、シチロージさんが不意に口を開いた。
「知ってるかい、イブキ」
 問われてもオレは応えられない。
 それを承知の上で、シチロージさんは独り言の如く続ける。
「この太巻きの由来だがね」
 何を思ってこんなこと始めたんだろうか。先ほどのオレの疑問だ。
「西方の色街……色街ってのは、まあ、この里のような場所だと思いな。その色街の、道楽衆の酔狂なのさ」
 オレは顎を上げて太巻きを口に入れながらその話を聞く。
「暇と金と色を持て余した旦那衆は、太く、長く、握った寿司を芸妓たちに食わせるんだ」
 思わず、齧ろうとした口を止めた。
「何の為かって?眺めるために決まってらあな」
 そのかわいらしい口が、硬く、黒いものを銜え込む様をだよ。不意に声が耳許で囁いて、オレは咳き込みそうになるのをなんとか堪えた。
 指が口元に触れた。
 上向きに咥えている所為でうまく逃げられない。
 口の端に滲んだ涎で指先を湿らせて、顎から首筋へ、冷たい感触が反った喉元、喉仏を辿る。
「そう思うと、こうやって太巻きを食べる姿も、随分と色っぽいと思わねえかい」
 もう一度耳許でそう囁く。
 その手が襟元を開いて滑り込んできて肌を弄り始めたのに、終に耐えられなくなってオレは銜えていたものを口から出した。
 それを両手で掴んで体を逸らせ、後ろに逃げる。
「ちょ……っ」
 間近にシチロージさんの顔があった。
「おや、もうちょいと頑張ってくれてもいいんですよ?」
 手を退きながらそう言って笑う。冗談じゃない。あともう少しで首を舐められるところだった。
「一体なにするんですかっ」
 オレの抗議を聞いているのかいないのか、シチロージさんは意に介さない様子で肩を竦める。
「無防備ってのは罪だね」
「え?」
「気にしなさんな。それよりも、決め事を覚えてるかい」
 その顔が、オレを見てにやりと笑む。
「声を出したね」
「な……」
「あたしの勝ちだ」
「ちょ、そんな、こんなのずるいですよ!」
「妨害無し、とは一言も言ってないさあね」
 ふふん、と笑ってオレの手から残り3寸ほどになった太巻きを取り上げる。
「それとも、男に二言かい?」
 先ほども聞いた科白をもう一度重ねられ、オレは二の句を呑み込む。
 やっぱり、絶対何かがおかしい。
 撫然とするオレを尻目に、シチロージさんが片眉を上げる。
「……まあ、よく食べたもんだ。お前さん根性は大したもんだねえ」
 それは寧ろ揶揄するように聞こえて、オレは口をへの字に結んだ。畳を睨む。
「……嘘まで吐いて、こんなことしてまで勝ちたいんですか」
「嘘?」
 シチロージさんは太巻きを膳の上に置いたようだった。視界の端で影が動く。不意にその影が視界を覆った。
 オレは驚いて顔を上げる。
「……そういえば勝ったら何を貰うか決めるのを忘れてたねえ」
 半眼の目がこちらを見下ろしていた。
「何が良いかねえ」
 ずい、とまた距離を詰められて、オレは思わず後ろに身を引いた。腰の後ろに手を突いてその顔を見上げる。
「お前さんを戴くとしましょうか」
 そう言って口の端を上げた。
「そ、そんなの賭けにならな、わッ」
 逃げる間もなくオレの体の片側に手を突いて、シチロージさんが圧し掛かかってくる。もう一度距離を取ることを試みたけれど、失敗して体勢を崩し、次いで片手を捉まえられてしまう。
「敗者は大人しく従うものでさあね」
 もう一方の手でオレの顎を捉えて、顔を寄せる。
「……因みに、さっきの話は嘘じゃあない」
 『お遊び』ってえ奴だ。
 声を低めて言われた言葉に、オレはようやく何故シチロージさんが襖を閉めたのかを理解した。はめられた、と思った時には、もう遅い。